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福岡高等裁判所 昭和60年(ネ)569号 判決

控訴人 田中茂宏

右訴訟代理人弁護士 南谷知成

同 牟田哲朗

被控訴人 杉谷光登

右訴訟代理人弁護士 森竹彦

主文

原判決主文第一項の1を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審を通じ、本訴・反訴とも被控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人は主文と同旨の判決を求め、被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

二  当事者双方の主張の関係は、原判決三枚目表一一、一二行目「田下利雄に対する損害賠償債権を放棄し」を「右示談契約を締結したため、田下利雄に対し右再手術及びその後の治療によって生じた損害の賠償を請求できなくなり、」と改めるほかは原判決事実摘示と同じであるから、これを引用する(ただし、反訴請求に関する部分を除く)。

三  《証拠関係省略》

理由

一  《証拠省略》によると本訴請求原因1の(一)の事実を認めることができ(ただし被控訴人が右下腿骨折等の負傷をしたことは当事者間に争いがない。)、同1の(二)の事実は当事者間に争いがない。

そして、《証拠省略》を総合すると、被控訴人は、控訴人病院において、昭和五六年六月二日、右下腿の骨折部にプレートをそえて釘で固定する手術を受けたこと、右のような固定手術がなされた場合、順調に骨折部が癒合して治癒すれば、通常右固定したプレート、釘を除去する手術(抜釘手術)を行ない、それで骨折の治療は終るものであること、しかして、被控訴人は、同年一二月二〇日控訴人病院を退院し、同五七年一月二五日まで控訴人病院に通院したのち他に転医したが、その後再び控訴人病院で治療を受けることにし、同年四月一四日及び同年六月八日に控訴人の診察を受けたうえ同月一四日控訴人病院に再入院し、翌一五日に抜釘手術を受けたところ、骨折端の癒合状態が悪かったため、更に入院治療を続けることになり、同年七月一三日に腸骨片を骨折部に移植する骨移植手術を受け、同年一一月一九日退院し、その後間もなく被控訴人の右骨折は完治したことが認められる。

二  次に、《証拠省略》を総合すると、本件交通事故の加害者である田下利雄(以下田下という。)は、福岡市農業協同組合との間で、自動車損害賠償責任共済の契約を締結していたので、同農協の担当者である木下重雄(以下木下という。)が田下を代理して被害者である被控訴人との示談交渉にあたったこと、一方、被控訴人の方では、昭和五七年に入ってから、勤務先の同僚である広田義美に示談交渉を任せたが、右広田のすすめもあり、早期に示談解決をしようという気持になっていたこと、しかして、被控訴人が前示のとおり昭和五七年四月一四日に控訴人の診察を受けた際、控訴人は、患部のレントゲン写真を撮ったうえ、被控訴人に対し、「順調にいっている。六月頃には抜釘してもよかろう。」などと説明したこと(なお、右説明は、通常の診察の経過においてその一環としてなされたに過ぎないもので、示談をするについての意見を求められたのに応じてなされたものではなく、むしろ控訴人は当時すでに被控訴人が示談をすませているものと思っていた。)、また、控訴人は、同年五月一四日に前記木下が控訴人病院を訪れて被控訴人の病状を尋ねたときにも木下に対し右同様の説明をしたこと、その後、被控訴人と田下(木下が代理して)は、同年五月二五日、本件交通事故に関し大要「田下は被控訴人に対し、昭和五六年五月二一日から昭和五七年五月一五日までの治療費のほか示談金として金三二八万七一八六円を支払う。被控訴人は、田下に対し右以外に損害賠償の請求はしない。」旨を内容とする示談契約(以下本件示談契約という。)を締結したが、本件示談契約締結の際には、被控訴人及び田下側とも、控訴人が前記のとおりの説明をしていたことから、被控訴人の右下腿の骨折傷害は同年六月頃と予想された、入院期間一週間余りの抜釘手術のみで治療が終り、程なく完治するであろうと考えていたもので、示談金の額もそれを前提として決められ、被控訴人は、右抜釘手術の費用を含め示談以降の治療費は国民健康保険を利用するほか右示談金でまかなうつもりでいたこと、ところが、前示のとおり、その後なされた抜釘手術の際、被控訴人の骨折部の癒合状態が悪かったため、更に骨移植手術が必要となり、入院治療の期間も長引き、それに伴い本件示談契約の際には予想されていなかった損害が被控訴人に生じるに至ったこと、以上の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》

三  しかして、被控訴人は、控訴人が前示のとおり被控訴人に対してなした説明が、その後の被控訴人の実際の病状の経過に照らして誤りであったとし、被控訴人が右誤った説明(診断)を信じて本件示談契約をした結果、再手術(骨移植手術)及びその後の治療によって生じた損害の賠償を加害者である田下に請求できなくなり、そのために損害を受けたもので、右損害は控訴人の診療契約上の債務不履行に基づくものであるから、控訴人に損害賠償の責任がある旨主張する。

そこで検討するに、一般に、医師が患者との間の診療契約に基づき、通常の診療の過程において患者に対しその病状につき口頭でなす説明(ないし診断)は、疾病の治療という診療契約の目的に随伴し治療行為の一環としてなされるものであるから、医師のなした説明、診断が誤っていた(或いは不適切であった)として診療契約上の債務不履行による賠償責任を負うのは、たとえば、右誤った(或いは不適切な)説明、診断により患者自身の療養上の対応を誤らせ、疾病を悪化させる等、診療契約の目的に反する結果を招来したことによって生じた損害にかぎられる、換言すればかかる損害のみが医師の通常の診療の過程における口頭での説明、診断の誤りと相当因果関係のある損害であるというべきである。

しかるに、本件において被控訴人が損害としてその賠償を控訴人に請求するところのものは、右に述べたような損害ではなく、被控訴人が傷害の加害者と示談契約をなしたことによって生じた損害というのであるから、そうであれば、仮にそのような損害が被控訴人に生じたとみうるとしても、そもそもこれをもって診療契約上(前記認定の事実によれば、控訴人、被控訴人間には昭和五七年四月一四日に改めて診療契約が締結されたものとみられる。)の債務不履行に基づく損害であるとして控訴人に対しその賠償を請求しうる筋合いのものではないというべきである。

のみならず、《証拠省略》を総合すると、昭和五七年二月五日の時点で、済生会福岡総合病院の医師横田清司は、控訴人に対し、被控訴人の症状について仮骨の状態が少し不良のようなので六か月程度経過を観察されてはどうかとの意見を書面で述べていること、そして、同年四月一四日の時点で、控訴人は、前記被控訴人の患部のレントゲン撮影の結果から、一方で仮骨の形成が依然思わしくないとは思いながら、他方、骨の出来の良い部分もあり、レントゲン写真だけからは更に骨移植手術をする必要があるかどうか十分には分からないので、しばらく経過をみたうえ、最終的には抜釘して骨の状態を直接診る必要があると考えており、控訴人の当時の主観的な判断によると骨移植手術の必要性の有無は五分五分であったことが認められ、右事実に鑑みれば、控訴人が被控訴人に対し前示のような説明をしたのは、患者である被控訴人に余計な心配をさせまいとの配慮から、当時予想された将来の病状の推移のうち楽観的な面を強調して述べたものであることがうかがわれるのであって(右説明が単に通常の診療の経過においてその一環としてなされたものであり、示談をするについての意見を求められたのに応じてなされたようなものでないことは前示のとおりである。)、このように、医師が、診療の過程において、患者に対する配慮から、必要に応じ、病状につき或る程度楽観的な面を強調した説明をすることは、格別診療契約の目的に反するものではないと解されるから、控訴人が前示のごとき説明をしたことをもって診療契約上の債務不履行にあたると断じることも困難であるといわざるをえない(なお、控訴人が木下に対してなした説明が、被控訴人に対する関係で診療契約上の債務不履行になるとする根拠も見出しがたい。)。

それゆえ、いずれにせよ控訴人に被控訴人との診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償責任があるものとは認められないから、損害の点につき検討するまでもなく、被控訴人の本訴請求は理由がないものとしてこれを棄却すべきである。

四  よって、これと異なる原判決(被控訴人の本訴請求を認容した部分)は失当であるからこれを取り消して被控訴人の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条但書を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 森川憲明 裁判官 柴田和夫 木下順太郎)

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